滋賀縣護國神社
ホーム 神様・歴史 年間行事 各種ご祈祷について 境内のご案内 アクセス
境内のご案内
第二十号掃海艇 慰霊碑 第二十号掃海艇 慰霊碑 母の像 母の像 父の像 父の像 拓友碑 拓友碑 花塚 花塚 拓魂碑 拓魂碑 宮田思洋句碑 宮田思洋句碑 平和之碑 平和之碑 戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑 戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑 シベリア強制抑留者慰霊碑 シベリア強制抑留者慰霊碑
  各碑詳細
【碑   名】 平和の礎・シベリア強制抑留者慰霊碑
【建立年月日】 平成12年11月
【揮号者名】 滋賀県知事 國松善次
【概   要】 シベリア強制抑留者の悲惨な歴史を後世に残そうと、全国強制抑留者協会は各地に慰霊碑を建立する計画を立て、滋賀県においては護國神社境内に建立することを策定し、神社の理解を得てシベリア強制抑留者のお一人であり、その生涯をシベリア抑留者問題に捧げられた故青木泰三氏が中心となって、関係者が大変な情熱を傾けて取り組まれた。
【碑   文】 悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。
然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
  平成十二年十一月吉日  滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会
  平和の礎・シベリア強制抑留者慰霊碑
【碑   名】 戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑
【建立年月日】 昭和61年10月1日
【所 在 地】 滋賀縣護國神社境内
【揮号者名】 彦根市長 井伊直愛
【概   要】 戦歿した軍馬・軍犬・軍鳩の霊を、戦士と共に末長く慰霊顕彰するため彦根・長浜地区の旧軍人等有志が「戦歿軍馬軍犬軍鳩慰霊塔建設委員会」を組織し県下一円に篤志を募って建立する。
御影石製台座の上に馬1頭、犬1匹、鳩3羽(現在2羽)の像が据えられ、台座裏の銅板には寄付者芳名が刻されている。毎年6月に平和之碑恒例祭に合わせて慰霊祭が執行されている。建設委員会関係者及び市傷痍軍人会関係者が参列。
【碑   文】 戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む
昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。
祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。
  昭和六十一年十月一日
  戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑
【碑   名】 祈 平和之碑
【建立年月日】 昭和57年5月吉日
竣工除幕式6月2日
【揮号者名】 彦根市長 井伊直愛
【概   要】 彦根傷痍軍人会が「平和」を祈念して会員(碑の裏に協賛者151名の氏名)の拠出により、当神社境内、市民会館に隣接する広場に建立。左碑の副碑には昭和天皇の御製「国もると 身をきすつけしひとびとの うへをしおもふあさにゆうへに」が刻されている(宮司 山本浅次郎書)。毎年6月に、彦根傷痍軍人会の主催により、碑前にて護國神社宮司による祭典を関係者が参列して執行している。
  祈 平和之碑
【碑   名】 宮田思洋句碑
【建立年月日】 昭和52年春
【概   要】 宮田常蔵(思洋)氏は能楽シテ方観世流師範・俳人・郷土史研究家であり、氏の功績を称えて本碑が弟子の方々によって建立された。
【碑   文】 お天守の 窓に野山の錦かな
  宮田思洋句碑
【碑   名】 拓魂碑
【建立年月日】 昭和47年12月9日
【所 在 地】 滋賀縣護國神社境内
【揮号者名】 滋賀県知事 野崎欣一郎
【概   要】 昭和7年からの満蒙開拓事業に参加した本県送出の44個団隊1800余名の開拓者のうち、青少年義勇隊員も含む物故者約400余名の諸霊の慰霊顕彰のため、滋賀県拓魂碑建立委員会が建立。また、平成3年8月4日、新たに48の団名を刻した碑を本碑の左側に建立する。8月の第一日曜日を例祭日として、同碑奉賛会主催のもと、護國神社にて慰霊祭を執り行い、その後本碑前にて拝礼を行っている。
【碑   文】 顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。
この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。
然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。
戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。
爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。
悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。
  昭和四十七年十二月九日
       滋賀県満蒙開拓物故者 慰霊碑建立委員会
  拓魂碑
【碑   名】 拓友碑
【建立年月日】 昭和44年9月
【所 在 地】 滋賀縣護國神社境内
【概   要】 本碑は三滋北義会代表宇野繁一氏の依頼により、移築建立された。
平成13年7月17日には移築建立式が執り行われた。
【碑   文】 顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ
厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル
   昭和四十八年九月
   元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
                   三滋北義會
             中隊長 北 島 光 三
         教学・教練幹部 藤 田 重 孝
         農事・畜産幹部 白 藤 正 雄
            庶務幹部 楠 本 ■ 蔵
              寮母 杉 江 志 げ

               贈 宇 野 繁 一

※■は風化のため欠けている部分

  拓友碑
【碑   名】 花塚
【建立年月日】 平成4年4月
【揮号者名】 井伊直愛
【概   要】 生活にうるおいを与えてくれる花に感謝するだけでなく、乱開発から自然を守り、花と緑を永遠に保っていきたいとの願いから、華道翠香流家元竹中翠香氏を中心に、故井伊文子氏等多数の有志の方々からの浄財により、建立された。毎年4月には花と緑に感謝し、供養する祭典が碑前にて斎行されている。
  花塚
【碑   名】 父の像
【建立年月日】 昭和44年8月
【所 在 地】 滋賀縣護國神社境内
【概   要】 滋賀県遺族会青年部(青壮年部を経て現在、壮年部との改称を経て現在滋賀県遺族会)が建立する。
本碑の左側に昭和57年8月13日、詩碑が建立された。
平成19年に「母の像」建立に伴い、父の像の周囲が改修された。
【碑   文】 「平和を願う」
戦争で幾百万という兵士が死んだ
兵士には父や母があり妻と子がいた
その子供達は父のいない家庭に育ち
父がほしいと何度か思って大人になった
そして自分達で父の像をつくった
異国で散った兵士も遺された家族も
願いは一つ平和であった

「父の像に捧ぐ」詞 我孫子元治
おとうさん
あなたに抱かれたことのない子が
あなたの遺骨を抱いたとき
おとうさん
あなたの無言の帰還を迎えて
あなたのきびしい声を聞いた
おとうさん
あなたの遺志を継いだ子が
あなたの霊に改めて誓う
おとうさん
あなたの抱き続けた平和への祈りを
あなたの子として祈り続ける   
  滋賀県遺族会青壮年部
(滋賀縣護國神社 宮司 山本浅次郎 書)
  父の像
【碑   名】 母の像
【建立年月日】 平成19年9月
【概   要】 財団法人滋賀県遺族会創立60周年を記念し、既に建立されてある父の像の周囲を改修して、その隣に寄り添うように母の像が建立された。母の像の着衣に注目すると、衣服はつぎはぎのモンペ姿、足もとは裸足で下駄履きであるが、子供には服装や靴がちゃんと揃ってあり、母の優しさが胸に迫る。
【碑   文】 祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。
残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。
子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。
滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。
  平成十九年 九月 吉日
財団法人 滋賀県遺族会
会長 山田利治
  母の像
【碑   名】 第二十号掃海艇 慰霊碑
【建立年月日】 昭和52年5月5日
【揮号者名】 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎
【概   要】 昭和20年5月5日、消息不明となり殉職した第20号掃海艇艇長田中三蔵之命以下175柱の戦歿英霊氏名が碑の裏に出身県別に刻されて慰霊顕彰している。
田中艇長の妻、故田中秀子氏によって建立。
毎年5月5日田中家始め遺族戦友等が参列し、本殿での掃海艇戦歿者永代命日祭祭典後、碑前にて玉串拝礼を行っている。
【碑   文】 第二十号掃海艇戰闘詳報
第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。
同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。

碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は次の通り。
滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱
新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。
  第二十号掃海艇 慰霊碑
【碑   名】 慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄
【建立年月日】 昭和42年の冬
【概   要】 本碑は、自身日露戦争に従軍された彦根市在住の故湯本昌雄氏が建立する。碑裏面には『戦場の四季』と題され、「奉天の東陵南陵揚げ雲雀」「萬世晴れて沙河の敵も雪を捨つ」の4句、そしてその下には日露戦争従軍記念と書かれ、湯本英雄・義雄・昌雄・信雄の4氏の名前が刻されている。
  慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄
【碑   名】 天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑
【建立年月日】 昭和50年5月28日
【揮号者名】 山本浅次郎
【概   要】 昭和50年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、5日間のご日程で滋賀県に行幸啓あらせられ、その間県下各方面をご視察遊ばされましたが、その御みぎり、当神社にご親拝を賜ったのを記念して建立された。
  天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑
【樹   名】 夫婦梅
  井伊家・水戸家仲直りの梅
【概   要】 桜田門外の変以後の両家仲直りの祭典が昭和43年執行されたのを記念し、水戸市より梅が送られたが、拝殿白砂前左右紅梅の梅がそれである。仲直りしたい人がいる方は、その人のことを想い梅に願いをかけてみてはいかがでしょうか。(※植樹は昭和45年)
  戊辰従征戦死者碑
【碑   名】 戊辰従征戦死者碑
【建立年月日】 明治29年9月
【揮号者名】 正五位 日下部東作(鳴鶴)
【概   要】 当神社の前身である招魂社創建にあたり、最初に奉斎した戊辰の役従軍戦歿者旧彦根藩士青木貞兵衛頼實之命を始め26柱の偉勲を録して後世に伝えようとした碑である。
風化のため判読できない箇所や欠けている部分がある。
何度かの移転の後にこの場所に据えられたものと思われる。
  正三位勲三等伯爵 井伊直憲 題額
正五位 谷鐵臣 撰
【碑   文】 明治戊辰春奥羽梗化  
天皇恭怒拝熾仁親王為征東大都督率諸藩兵討之我彦根藩主井伊直憲君出兵二千充其先鋒進戦?有効事平 朝廷賞賜祿二萬石藩主乃頒与藩士有功者而戦死者子孫■與焉設場祀戦死者之靈闔藩士民奔走助奠莫不感愴哀慕者優然肅然如観其奮闘叱咤之状後有 朝命曰凡諸藩建招魂社者官賜其祭資除地租於是藩主與諸士議ト地於城東更建祠宇諸受賞者各捐一歳貨以充其費不曰告成得祀者凡二十六人其十九人死于下野曰青木頼實曰高木展徳曰矢島義則曰雨宮信義曰家■貞道曰淺山重正曰矢田重次曰山口義忠曰林正吉曰柳瀬久吉曰岩崎宗久曰丸山真信曰常■正高曰安藤啓述曰秋場義行曰雨川定次曰山口忠信曰西澤治忠曰宮川■忠七人死于陸奥曰平居紙嚴曰高橋重雄曰木田餘秀曰田中貞次曰小倉安定曰本山忠高曰岸下文吉曰嗚呼人誰無死以死■事國安民利而巧名■於不朽死者■可以無憾矣
     明治二十九年九月 多川雅吉 刻
※■は風化のため欠けている部分
  戊辰従征戦死者碑
【碑   名】 表忠臼砲記
【建立年月日】 明治31年10月
【揮号者名】 正五位 日下部東作(鳴鶴)
【概   要】 日清戦争において、軍艦秋津洲の分隊長として黄海の役に臨んだ海軍大尉贈正五位永田廉平氏が清国軍との交戦中に殉死さる。その後、氏の遺族や旧友が氏を慰霊顕彰するため、彦根招魂社内に本碑を建立する。
【碑   文】 明治二十七年九月十七日海軍大尉贈正五位永田廉平君以軍艦秋津洲
分隊長死於黄海之役初清国搆難於我我軍艦秋津洲与吉野浪速二艦至
豊島撃去清艦二隻獲一隻又撃沈運送舩一隻載兵士千有餘人者及我艦
隊進向大孤山洋清艦十餘隻儘力拒戦君瞥左舷砲臺指麾■力偶中敵弾
而死我師終大捷明年十月軍艦秋津洲攻臺湾南岬砲臺破之師還艦長海
軍大佐上邨彦之丞傷君中道斃職不目凱旋之盛乃贈所獲臼砲一門以慰
君靈於是遺族故奮相謀安之彦根招魂社内永示後人同郷陸海軍人及有
志者争助其舉余為之記云
  明治三十一年 十月
正五位 日下部東作 書 多河雅吉刻
※臼砲の砲は、石・馬・交を合わせた字であるが、表記できないため、砲を代字とする。
※■は風化のため欠けている部分
  表忠臼砲記
【碑   名】 井伊大老歌碑
【建立年月日】 昭和35年10月
【概   要】 井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてから100年が経過した昭和35年に開催された「大老開国100年祭」に先がけて市内有志29名により建立された。碑文は直弼自筆の和歌を写したもの。
【碑   文】 あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな
  井伊大老歌碑
第二十号掃海艇 慰霊碑 日露戦争従軍碑 第二十号掃海艇 慰霊碑 拓友碑 拓魂碑 花塚 父の像 母の像 宮田思洋句碑 平和之碑 戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑 シベリア強制抑留者慰霊碑 戊辰従征戦死者碑 表忠臼砲記 井伊大老歌碑 天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑